「娯楽本」の地本問屋と「学術書」の書物問屋
蔦重をめぐる人物とキーワード⑨
■企画、編集、出版、流通を一手に担う
江戸時代の文化は出版業者に支えられ、大きく花開いた。浮世絵や草双紙(くさぞうし)が大衆に支持され、江戸の流行がそうした作品を介して人々に広く伝えられた。
江戸の出版業者は「書物問屋(しょもつどいや)」と「地本問屋(じほんどいや)」に大別される。
「書物問屋」は、武士や学者など知識層を主な顧客とした、いわゆる学術書や古典籍の出版をメインにした業者で、歴史書や医学書、仏教経典などを取り扱い、全国的な流通網を持っていた。こうした専門性の高い学問的な書物は「物之本(もののほん)」と呼ばれた。
書物問屋は寛永年間(1624~44年)の京都で誕生したとされる。当初は、寺社が民間に出版事業を委託する形で行なわれていたようだ。宗教書を中心に、和歌や医学を取り扱う学術書が刊行されていたという。江戸が100万の庶民を抱える大都市に発展すると、新たな販路として江戸に書物問屋の出先機関が置かれるようになった。
京都から届く書籍を、江戸では「下り本」として販売していたが、寛文年間(1661~73年)には、自ら出版事業に乗り出す業者が誕生したようだ。京都からの下り本ばかりだった店頭に、やがて江戸で独自に発展した娯楽本が登場。江戸で生まれた本は「地本」と呼ばれ、地本問屋が成立する。
1722(享保7)年に幕府が「享保の改革」の一環として一部の商業に対して株仲間を公認したのに伴い、書物問屋は株仲間を結成。一方の地本問屋は当初、株仲間を認められることはなかったものの、同業者間の連携を強め、お堅い内容より娯楽を求める江戸庶民に大衆的な本を提供した。
ただし、庶民にとって本は高級なものだったので、江戸では貸本屋が流通の要となった。手軽に読める環境は、人々の「本を読みたい」という欲求を育て、高めることにつながった。
書物問屋と地本問屋はいずれも、店先で書籍を売るだけでなく、他の書店と交流して売買し、売り出す本の企画を練り、製作・製本まで行なった。現在でいう、書店や出版社の役割を兼ねるだけでなく、書籍を納品する取次(流通)の機能も担った。なかには、貸本屋や古本屋を兼業していた本屋もあったようだ。
仲間内の結束が固く、新規参入が厳しいなかで、貸本屋から身を立て、版元として地本問屋の仲間入りを果たした蔦屋重三郎は、異例の存在だった。彼は吉原を題材にした作品を中心に、既存の枠にとらわれない自由な発想の本を数多く出版し、世間を驚かせる作品を生み出す書き手を世に送り出した。江戸の文化をより華やかなものにした功労者という点で、同時代の版元の中でも蔦重の存在は特に際立っている。
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